山寺の由来An origin of Yamadera
宝珠山 立石寺登らなければ味わえない感動が、そこにあります。
山寺立石寺と根本中堂
山寺は、正しくは宝珠山立石寺といい、貞観2年(860)清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた、天台宗のお山。正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。堂内には、慈覚大師作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができる。
対面石
慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。
芭蕉句碑と清和天皇御宝塔
閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・元禄2年(1689)、おくのほそ道をたどり、今の7月13日に山寺を訪れた松尾芭蕉の句で、門人たちが嘉永6年(1853)にたてた句碑である。奥に見える宝塔は、山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔で、当山では最も古い石塔である。
日枝神社
5月17日に山寺山王祭がおこなわれるところ。右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明皇后の記念碑である。後方の大銀杏は、山形市で一番太いという天然記念物で、慈覚大師お手植と伝えられ、1000年を超える樹齢というその下には、高浜虚子・年尾の親子句碑がたっている。
山門
右側のお堂は常行念仏堂で、参詣者も自由に修行ができるように、準備されている。頭上の堂は鐘楼で、除夜の招福の鐘として知られる。左側の、鎌倉時代の建立といわれる山門は、開山堂などへの登山口で、大仏殿のある奥之院までの石段は800段を超える。
姥堂
この堂の本尊は奪衣婆の石像。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。一つ一つの石段を登ることによって、欲望や汚れを消滅させ、明るく正しい人間になろうというもの。左の大きな岩は、笠岩とも笠投石ともいい、慈覚大師が雨やどりしたところとも伝えられる。
四寸道
お山の自然にそってつくられたこの参道は、昔からの修行者の道。一番せまいところは約14センチの四寸道で、開山・慈覚大師の足跡をふんで私たちの先祖も子孫も登るところから、親子道とも子孫道ともいわれる。左上にそびえる百丈岩の上に、納経堂や開山堂、展望随一の五大堂がたっている。
せみ塚
閑さや岩にしみ入る蝉の声芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。
弥陀洞
ながい歳月の雨風が直立した岩をけずり、阿弥陀如来の姿をつくり出した。1丈6尺(約4.8メートル)の姿から丈六の阿弥陀ともいい、仏のお姿に見ることができる人には、幸福がおとずれるという。
仁王門
嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門で、左右に安置された仁王尊像は、運慶の弟子たちの作といわれ邪心をもつ人は登ってはいけないと、睨みつけている。
山内支院
江戸時代までは、12の塔中支院があり、多くの僧が修行に励んでいた。今は性相院・金乗院・中性院・華蔵院の4つの院が、その面影を残している。
奥之院と大仏殿
正面右側の古いお堂が奥之院ともいわれる如法堂で、開山・慈覚大師が、中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。石墨草筆の写経道場で、明治5年の再建。左側の大仏殿には、像高5メートルの金色の阿弥陀如来像を安置し、毎日、卒塔婆供養をおこなっている。
修行の岩場
正面の岩に巌をかさねた岩場は、釈迦が峰といい、今では修行者以外の登山を禁じている。
開山堂と五大堂
立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香を供えている。向かって左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物である。県指定文化財で、昭和62年に解体修理がおこなわれた。その真下に、貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟がある。頭上の建物は五大堂といい、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、山寺随一の展望台でもある。